糸島移住物語
こんにちは。
糸島写真館のカメラマン、渡邊精二です。
2011年8月に東京から福岡県糸島市に移住しました。
当時住んでいた東京都中野区の大都会から、過疎化の進んでいた海沿いの町・芥屋(けや)へ。
勤務していた共同通信社を辞め、縁もゆかりもない、この芥屋に移り住むまでの話を書いておこうと思います。
特に糸島写真館の写真とは関係のない話ですが、糸島移住を検討されている方の参考に、あとは渡邊精二の情報として知っていただけたらと思います。
ちょっと長いですが、お付き合いください。
スポーツ記者を務めていた共同通信社を退職したのが、2011年6月のことです。
退職理由は仕事上のことを含めていくつかあるのですが、この年の3月11日に起きた東日本大震災が大きなきっかけでした。
もともと、妻も私も、自然が大好きで「いつかは田舎暮らしをしたい」という目標を持っていました。
多くの方も同じ経験をされていると思いますが、私たち夫婦も震災で自分たちの、この先の人生を考え直しました。
万単位の人たちが突然命を失った大震災。
「いつかを待つより、今を生きよう」
そう思ったんです。
JR中野駅前から妻に「会社を辞めようと思う」と電話したあの日を、今も思い出します。
放射線に危険を感じ、生後半年にも満たない長男を抱え、実家の福岡に帰省していた妻も了承してくれました。「田舎暮らしするなら、今しかないよね」と。
記者をやっていたとはいえ、田舎で何をして食っていこうかなんて考えずに東京卒業が決定。
とりあえず、移住のサイトを片っ端から見て、当時注目を集め始めていた「地域おこし協力隊」に応募しようと思いました。
働きながら田舎での生活に慣れることができるからです。
私たち夫婦ともに、実家は福岡にあります。
だから、移住するなら両親に近い九州という意見で一致していました。
その中で、「湯布院温泉」で全国に有名な大分県由布市で協力隊を募集しているのを見つけます。
「温泉に入りながら田舎暮らしも最高だね」
軽い考えで応募し、市役所で面接を受けると、あっさりと合格。
実は、僕しか募集に飛びつかなかったんです 笑。
協力隊でのタスクは、湯布院の山奥の限界集落での支援活動でした。
ただ、現地視察で問題が発生しました。
住居が提供される予定だったのですが、それがご老人宅の離れの一部屋。
台所はなくて、お風呂は老人宅のを借りないといけません。
1人暮らしなら良いけど、生後半年の赤ちゃんを伴っての移住は厳しいと感じ、お断りすることになりました。
さて、どうしようか?
田舎暮らし計画は白紙に戻りました。
当時共同通信社の社宅に住んでいたのですが、退去期限も迫っていました。
「糸島に仮の拠点をつくって、そこから九州中を回って移住先を見つけたらいいんじゃない」
妻との会話で、そんな話が出てきました。
なぜ糸島か?
福岡育ちの2人にとって、身近な田舎のイメージと言えば糸島でした。
まだ今日の糸島ブームなんてなかった時期。
ただ「福岡の田舎」というだけの理由で、糸島に移り住むことを決めました。
短期ステイの予定でしたが・・・。
まず物件探し。
かつての取材先の女性が、糸島に土地を持っていることを思い出し、管理する不動産屋さんを教えてもらいました。
この不動産屋さんが活躍してくれます。
当時、糸島ブームもなく、不動産屋さんも、「駅前の物件が便利でよかろう」と筑前前原駅周辺の街中の家ばかりを紹介してきました。
こちらが「糸島の賃貸物件」としか伝えてなかったのも悪かったのですが、あとで田舎には賃貸物件が極めて少ないことを知ります。
10年ほど前は糸島の志摩地域も、二丈地域も、空き家がいっぱいありました。
ただ家主が貸してくれないんです。
田舎では「よそ者」は、宇宙人みたいなものでして、かなり警戒されます。
客観的に考えれば、当然ですよね。
極めて狭いコミュニティーに、訳のわからない人が入ってくるんですから。
移住者が非常識な人だったら、家主は近所の住民からめちゃくちゃ怒られます。
そんなトラブルに巻き込まれたくないから、田舎に賃貸物件はほとんどないんです。
こんな事情もよく知らず、ただ、大自然での生活に憧れていたわれわれ夫婦は、不動産屋さんに「とにかく不便でいいから、自然たっぷりの田舎集落がいい」と伝えました。
すると、不動産屋さんは、「芥屋と桜井に貸してくれるかもしれない空き家があるかも」。
そう言って、知人のつてをたどって、ネットにも上がっていない貸家を探し出してくれたんです。
見つかったのが、芥屋にある地元漁師さん所有の空き家でした。
かつて造園屋さんが暮らしていた平家で、とっても大きな家です。
ただ、痛みが激しく、床も湿気でぐにゃぐにゃ。
住むにはリノベーションが必要でした。
「自分で修繕して住むなら月3万円で貸す。ただし、期間は2年」。
田舎の賃貸物件の相場も知りませんでしたが、とりあえず3万ならいいかと即決しました。
とっても広い座敷の畳をはいで、3センチ厚の杉板を敷き詰めたほかは、建築家などの知り合いの協力を得て、ホームセンターでコンパネを50枚購入し、床に打ち付けるだけの簡単なリノベーション。
それでも、幼子を連れて住むには十分の環境でした。
かつて観光業で栄え、今も民宿や旅館が残る芥屋は10年ほど前は、観光客もまばらで、ドライブをする人もまばらでした。
夏に芥屋海水浴場に行っても、プライベートビーチ状態。
自然豊かな静かな環境の中で、私たち夫婦は芥屋という集落を気に入っていきます。
閉鎖的と言われる田舎ですが、ご近所にとっても信頼できる地元民がいたこと、相談できる移住者の先輩がいたこと、そんなご縁に恵まれ、「糸島がいいなあ」と思うようになったのです。
まさに住めば都だったわけです。
赤ちゃんを連れていたことも、田舎暮らしには大きなプラスでした。
私たち夫婦だけで道を歩いていても「誰かな?」と警戒の目で見られるだけですが、幼子を見ると「かわいいねえ」と声をかけてもらいます。
息子から話のきっかけが生まれ、地域の人たちと仲良くなっていけたのです。
子供は田舎の住民との「接着剤」になってくれるので、小さな集落に住むには子連れが有利です。
そんなわけで、糸島を拠点に移住先を見つけようと思っていたのですが、結局は糸島に居座りました。
再び、同じ不動産屋さんに頼んで、芥屋の隠れた物件をリサーチしてもらい、運良く退去予定の大きな平家を近所で見つけ、購入しました。
たくさんのご縁に恵まれ、たくさんの方に支えられた糸島移住。
今は松枯れで死滅しかけた「弊の浜」の海岸林保全のボランティアに参加し、自らの住む地域に貢献できるよう頑張っています。
糸島写真館に興味を持っていただいた方々。
「糸島に移住がしたい」
「不動産屋さんを教えてほしい」
など、写真に関すること以外でもいいので、お気軽に遊びに来てください。